オールナイトニッポン サイドストーリー

「オールナイトニッポン」放送開始から50年の間にあった知られざるエピソードを取材しスポットライトをあてていきます。Webメディア「allnightnippon.com」で不定期連載です。

電波を通して同じ青春を過ごした「パーソナリティとリスナーの絆」

2017年12月01日 07:00

放送50周年を迎えたラジオ番組「オールナイトニッポン」。番組制作の中で生まれた数々のエピソードを「オールナイトニッポン サイドストーリー」として不定期連載しています。

オールナイトニッポン・パーソナリティ列伝(第2回)齋藤 安弘

1967年10月に始まった「オールナイトニッポン」は全曜日をニッポン放送の局アナやプロデューサーがパーソナリティを務めた。火曜日の担当は本名の「やすひろ」を「アンコー」と読んだ通称でおなじみになる齋藤安弘だった。

当時入社3年目の26歳。同じパーソナリティたちの中でも一番の若手である齋藤に白羽の矢が立ったのは何故か、齋藤は当時の編成部長だった羽佐間重彰(後・ニッポン放送社長)に尋ねた事がある。「お前は明るいからな」「他にアナウンサーとして見るべきところとか、光モノとかないんですか?」齋藤の重ねての質問に羽佐間は答えた。「あるわけないだろ、そんなもん」。

齋藤のキャラクターエピソードは他にもある。入社すぐの1964年。当時上野動物園で飼育されていたカバのザブコが死亡したニュースを知った齋藤は、先輩女子アナに悲しげに報告した。するとその先輩は呆れて、齋藤のニックネームを「ザブコ」にしてしまった。その女子アナこそが後に「現場から東海林がお伝えしました」という名文句で人気レポーターとなる東海林のり子だったと言う。

明るさとキャラクターを買われて抜擢されたオールナイトニッポンのパーソナリティとなった齋藤。他の曜日はベテランの先輩ばかり。齋藤は当時を振り返ってこう語る。「高岡寮一郎さんはカッコよくてね。語り口がソフトで、着ているモノもオーダーメイドのYシャツだったり。糸居五郎さんはとにかくダンディ。茶系のスーツに同系色のネクタイ。ペンはシェーファーで煙草はゲルベゾルデ(ギリシャ)かキャメル(アメリカ)でしたよ」。当の齋藤本人はと言うと「生放送の時もTシャツにサンダル履き(笑)」だった。

当時の番組はどのように作られていたのだろうか。齋藤に尋ねると様々なエピソードが飛び出した。数十曲をかけるオールナイトの選曲に齋藤は一週間かける。その作業中に、デスクにレコード会社のプロモーター(宣伝担当)がやってきてキューシート(楽曲を記載する)に自分の会社のレコードが選ばれるか固唾を飲んで見守っていた。そして、齋藤が所用で席を離れ帰ってきた時には、キューシートに見知らぬ楽曲が書かれていた。プロモーターが鉛筆書きだった曲を消しゴムで消して、勝手に自分の会社のアーティストに書き直していたのだ。

こんな話もある。ザ・ビートルズの新曲が出たというニュースを知ると、ビートルズ担当だったレコード会社にいち早く電話して「試聴盤(サンプル盤)のレコードを糸居さんよりも早くこっちに持ってきてくれ」と頼んだ事もあった。

「他の曜日へのライバル心はありましたよ。ハガキの数などもね」。そして生放送の火曜日の夜を迎える。まずは腹ごしらえとばかりに有楽町駅のガード下にある「あたり屋」というおでん屋さんに出向いて「おでんじゃ腹持ちしないからラーメンを作ってもらったんです。厚切りのチャーシューやメンマがたくさん入っていて、美味しかったなぁ」。

番組のスタイルも、糸居と同じく、スタジオの中のレコードのターンテーブルから自らレコードをかける。その時のスタジオ外(サブ調整室)に2台、スタジオ内に2台のターンテーブルがあり、「音の遊びもよくやった」。が、時には失敗もある。ナットキングコールの「モナリザ」をかけた時、ジャケットを落してしまい針飛びで音楽を中断。リスナーに謝りながらもう一度流すと、今度はレコードの溝に傷が出来たのか、「♪モナリザ~モナリザ~モナリザ~」と同じ部分をくり返す始末。「こりゃ駄目だ。今度またね」レコード時代の生放送ならではのエピソードだ。

深夜2時になると、各曜日がそれぞれのコーナーを作っていた。火曜日の齋藤は「トイレの話」。ちなみにテーマソングは映画「マイ・フェア・レディ」から「運(うん)がよければ」と念がいっている。「オールナイトニッポンを始めるにあたって、羽佐間(編成部長)さんから言われてたのは、相手役は置かない。それから下ネタ禁止。でもシモはシモでも、こっちならいいかなって」。

そんな「隣の兄ちゃん」的な齋藤のキャラクターは人気を博していく。「修学旅行の高校生が、自由時間にニッポン放送にやってくるんですよ。受付から電話があって3階のカフェに案内してお茶かなんか飲ませてね。高校生から案外ニッポン放送ってちっちゃいんですねなんて言われたり」。「北区の酒屋の息子さんが番組に出入りしてて。スタッフじゃないですよ。なんだかいつの間にか来てたんだけど。そいつらとオールナイトの放送前に赤坂にボーリングしに行ったこともあったなぁ」。

同期の亀淵昭信(後・ニッポン放送社長)との「カメ&アンコー」コンビではレコードも発売。「水虫の唄」は21万枚を超える大ヒットとなった。そのご褒美にカメ&アンコーは会社から「報告の必要のない出張」という名の「アメリカ旅」をプレゼントされる。

折しもニューヨークでは「ニューヨーク・ポップフェスティバル」が開催されていた。2日に渡るライブのトリを飾ったのはジミ・ヘンドリックス。齋藤はジミヘンのライブを見た数少ない日本人の一人でもあった。

1ドル360円の固定相場のうえに外貨持ち出し制限のあった当時の「お金のない二人」は、「泊ったホテルのハエ叩き」や「使いかけの石鹸」、「飛行機の中のタダのグッズ」などを持ち帰った。それをリスナープレゼントにしているのもオールナイトニッポンらしい。

「(オールナイトニッポンは)とにかく自由で、喋り手に全てを任せてくれる番組でした」と齋藤は語る。26歳の当時最年少パーソナリティは、その若さを武器に、リスナーと同じ視線から「深夜の解放区」を作り上げていった。

その後齋藤は現場を離れ、関連会社での勤務を経て「オールナイトニッポンエバーグリーン」(2003~2009)のパーソナリティを務めた。その番組にはかつての60年代のリスナーもハガキを送ってきた。「彼らとは今も付き合いがあるんですよ。一緒に北海道旅行に行ったりして」。

電波を通して同じ青春を過ごしたパーソナリティとリスナーの絆は、まるで同窓会の様に今も続いている。

【文・正岡謙一郎】

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