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魂ラジブログ
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7月24日 小原信治の草の根広告社
『夏色』
 
 大人だから、いろいろある。
 そんな「いろいろ」を背負った大人という着ぐるみを脱がせてくれるのが夏休みなんじゃないだろうか。そうそう、「北風と太陽」の物語で旅人のコートを脱がせた太陽みたいに。
 
 鎌倉に住んでいる高校の同級生に誘われて、由比ヶ浜に花火見物に出かけた。同級生が数名、浜辺に広げたシートで待っていた。平日なので仕事やら何やらで都合がつかないというメンバーもいた。平日なのに夕方からのこのこと集まれる自由さこそが、大人になって手に入れた何より素晴らしいものだと改めて思った。

 涼しい風が心地よい夕暮れだった。波の音を聞きながら、クーラーボックスで冷えたビールで乾杯した。みんな外では45歳のおじさんおばさんなんだろうけど、こうして集まると自分たちで言うのもなんだけど若い。たぶん、高校のときの表情に戻るからなのだろう。ぼくらは普段、接する相手に合わせて大人の顔をしたり、させられたりしているだけなのかもしれない。

 夕陽が山の向こうに沈んだ頃、花火が始まった。空高く上がっては闇夜に眩い花を咲かせ、やがて煙を残して消えてゆく。その繰り返しを黙って見ている。みんな笑顔だけど、どこか少しだけ淋しそうでもあった。

「実は、花火を買ったの」
 誘ってくれた鎌倉の友達が、花火を購入していた。なんでも8千円から尺玉が買えるらしい。花火が上がる時に購入者の名前やメッセージなどがアナウンスされるのだ。そんなのがあるなんて知らなかった。一番高い尺玉を買ってプロポーズに使っている人もいた。友達の名前とともに打ち上がった尺玉は小さいけど、なんとも愛嬌のある花を夜空に咲かせていた。いつか同級生みんなでお金を出しあって、でっかい花火を買おうぜと酔った勢いで約束した。それってなんともドリーム感のある同窓会じゃないかと。まあ、気が向いた時の不定期な同窓会と同じで、いつになるかはわからない約束だけれど。

 いつの間にか頭の中で、ゆずの『夏色』が鳴り響いていた。

  みんな夏が来たって浮かれ気分なのに
  君は一人さえない顔してるネ
  そうだ君に見せたい物があるんだ

 大人だからいろいろある。
 そんな「いろいろ」を背負った大人という着ぐるみを脱がせてくれるのが夏休みなんじゃないだろうか。もっとも海のそばで自由業をしながら暮らしている僕は、一年中、夏休みみたいな人生なんだけどね。

 夏休みはまだ、始まったばかりだ。

小原信治
投稿時間:2014-07-24 18:51:53
 
7月17日 小原信治の草の根広告社
『真夏の紫陽花』
 
 小雨降る日曜の夕方、こんな日は冷たい日本酒だと、顔見知りのおばあちゃんがやっている2つ先のバス停にある酒屋さん(別荘族向けなのかとても品揃えが良いのだ)まで、散歩がてらビーサンで買い出しに行ったときのことだ。夏祭りの提灯の下に、濡れた紫陽花の花を見つけた。鮮やかだった青紫はところどころ茶色にくすんだように変色し、張りのあった花弁もしわくちゃになっている。正直な子供ならおそらく「きたねー」と言うかもしれない。第一印象はそれくらいみすぼらしく、まるで捨てられた犬や猫みたいに、哀しかった。

「紫陽花の花は散らない」

 後で調べて初めてそのことを知った。あくまで価値観のひとつでしかないが「美しい」と言われたまま散ってゆく桜と違って、紫陽花は花を咲かせた後、枝についたまま、秋から冬に掛けてゆっくりと朽ち果ててゆくのだという。お隣り鎌倉のあじさい寺などに代表される満開時の賑わいからすると、夏から秋に向かって、人知れずひっそりと朽ち果ててゆくその生き様になんだか、言葉にできない凄みを感じた。年齢だろうか。若い頃は桜のような潔さに憧れてもいたが、今はたとえたくさんの人に見られることがなくなっても、色褪せても、醜いと言われても、しぶとく花で居続けようとする紫陽花にシンパシーを感じた。もっとも、一度でも誰かに「美しい」と言われる花を咲かせることができていれば、の話だけれど。
 
 と同時に、そんな紫陽花の生き様を知らなかった自分に驚いた。今まで何度も紫陽花を見て来ただろうに、一度もその花を行く末を気にもせずに生きてきた自分にほとほと呆れた。いや、目には入っていたはずだ。にもかからず何も感じていなかったのだ。僕はいったい何を見てきたのだろう。ここで暮らすようになってからは、こんな風に日々が発見や感動の連続だというのに。場所のせいだろうか。それとも自分自身の心の変化なのだろうか。
 
 海辺の町で暮らすようになって、5回目の夏を迎えた。

小原信治
投稿時間:2014-07-17 16:46:38
 
7月10日 小原信治の草の根広告社
『45歳年上の女の子と、45歳年下の女性。』
 
 週末、ずっと逢いたかった、ふたりの女性に逢ってきた。
 ひとりは、僕より45歳年上の女の子。戦前・戦中・戦後と、ずっと畑で生き続けている、農業の師匠だ。4ヶ月遅れのバースデープレゼントに用意した、薄桃色の扇子を手に、同じ柄の手ぬぐいを首に巻いた彼女のあまりの邪気のなさに「相変わらず、かわいいね」と声を掛けると、「こないだ町の集まりに顔出したときも、みんなから『かわいいかわいい』って言われたんだよ」と生きていることの喜びと嬉しさを噛みしめるように笑っていた。

 あくる日に逢いに行ったもうひとりは、45歳年下の女性。去年この世界に生を受けたばかりの、友達のひとり娘だ。これまでに何度か逢ったことはあったけど、僕のことなんてまず憶えてはいないのだろう。最初は恥ずかしそうにお母さんの胸に顔を埋めていた。それでも僕が大好きなお父さんの友達だと理解してくれたのか、何度かこちらをチラチラ見ているうちに慣れたのか、それとも単なる気まぐれなのか、突然、お母さんの手からするすると滑り下りると、よちよち歩いて、笑顔で僕の方に向かってきた。
「お金持ってそうな男の人にばかりなついていい顔するんだよ」
 友達が、冗談っぽくそんなことを言った。
「悪いオンナだなー」
 そんな僕の言葉を悪戯っぽい微笑みで交わし、お母さんの方に歩いてゆく。抱き上げようと伸ばした手にハイタッチをすると、再び踵を返し、また僕の方に歩いて来る。今度は満面の笑顔で。また両手で受け止める。遊んでくれると思ったのか、歩けるようになったばかりで足の筋肉を鍛えなければならないと本能的に思っているのか、彼女は数メートルほどあるお母さんと僕の間を何往復も歩き続けた。時には抱き上げたりもしているうちにだんだん疲れて来る。「いつまで続けるの?」「何がしたいの?」そう訊いても、答えてはくれない。透明な真意に触れられぬまま、振り回されること30分。気がついたらすっかり汗だくだった。
「これが毎日なんて大変だね」
 友達夫婦にそんな本音を漏らしながら、さんざん振り回された45歳年下の女性の小さな手を握っているうちに、前日に握手をした、45歳年上の女の子の、皺だらけの真っ黒な手を思い出していた。

「戦争のときって食べるものあったの?」
 僕が何度も訊いたその質問をすると、「たくさんあったよ、畑で今よりも作ってたんだから」と彼女はいつもそう答えてくれる。当時は小麦粉も栽培してすいとんを作ったり、うどんを打ったり、お米でお酒だって作っていたそうだ。
「節制節制って言われてたから、なるべく芋を食べるようにはしてたけどね」
 どこまでが正しい記憶なのか今となっては定かではないけれど、僕が子供の頃、戦中・戦後は食べるものがなく誰もがひもじい思いをしていたという教えは、どうやら農地の少ない都会だけの局地的なものだったらしい。自ら命を繋ぐ食べるものを作り出して戦中・戦後を生き抜いて来た彼女の手を見ながら訊くその言葉はいつだって、僕を安心させてくれる。それは、彼女の自立した営みこそが、明日はどうなるか分からないこの不安定な世界で、僕が唯一といっても良いくらい信じている確かなもののひとつだからだ。すなわち、90歳の彼女は45歳の僕自身の未来でもあるのだ。

 未来に想いを馳せながら、45歳年下の女性の小さな手を今一度、握った。90歳の女の子と1歳の女性。二人は100年近く離れている。同じ土地で生まれながら、まるで違う時代を生きている。45歳年上の女の子から受け継いだ想いや生きてゆく術を、僕はいつの日か45歳年下の彼女にも伝えることはできるだろうかと思った。伝えることを生業としている、ひとりとして。

 そんなことを思いながら改めて見た自分の手はなんとも頼りなく、愛おしかった。
  
小原信治
投稿時間:2014-07-10 18:23:42
 
7月3日 小原信治の草の根広告社
『かあちゃん財布』
 
 僕だけだろうか?
 この季節、長財布が邪魔で仕方ない。夏場でも内ポケットのあるスーツで活動していればまだしも、Tシャツなどのラフな服装で仕事にゆく僕にとって、パンツの尻ポケットしか入れ場所のない長財布は文字通りの重荷なのだ。トートバッグかなんか持っていればそこに放り込んでおけばいいが、日頃使っているのは口を絞るボンサックなのでいちいち出し入れするのも面倒だし。

 ついでに言えば、今使っている長財布、高級なブランド品ではないけれど、どことなく気取っていて海辺の暮らしにはなんとも似合わないような気がしていた。たぶん、都会で暮らしていた頃と着るものが変わってきたせいもあるのだろう。

 そんな理由で、夏前くらいからコンパクトで気取ってない財布を探していたのだが、なかなかコレというものに出逢えないまま夏を迎えていたある日のこと、久しぶりにオフクロから連絡がきた。

 訊けば、70歳の誕生日に「ミシンを買って欲しい」のだと言う。以前、書いたかもしれないが、母は趣味で手芸をやっていて、ここ数年は知り合いが営んでいる浅草の履き物屋さんで、和をモチーフにした手作りの携帯ストラップなんかを外国人観光客に売ったりしているのだ。そんな商売道具のミシンが壊れてきたので新しいのが欲しいのだという。僕は咄嗟に思いついて、こう言った。

「ミシン買うから、俺に財布作ってくんない?長財布じゃないコンパクトな奴」 

 実を言うと、少しお酒が入っていた。いや、酔ってなければ恥ずかしくてそんなこと頼めなかったんじゃないだろうか。いくら売り物にもなっているとはいえ、僕にとっては実の母親の手作りの、しかも家の中ではなく公の場で使う財布なのだ。でも、酔ってたとはいえ、なぜそんなことを頼めたんだろう?と、電話の後、飲みながら考えた。

 たとえば、小洒落たBarなんかの支払いでおもむろに出した財布について訊ねられ「これ?オフクロの手作りなんだ」と良い年した男が言ったら、一緒に飲んでいた女性は幻滅するだろう。完全にマザコンだと思われるだろう。と以前の僕なら考えた。でも、20代、30代ならともかく、もう45歳だ。もはや誰かにそう思われたところで何の問題があるというのだろう。何より、小洒落たBarで女性を口説く予定は全くないし、仮にそういう場所で財布を出す機会があったにせよ、そこで手にしているのは大量生産の気取ったブランド品より、世界にひとつしかないかあちゃんの手作り財布の方が、今の自分らしいと思ったのかもしれない。

 18歳で親元を離れてから30年近く、両親とは色んな意味で距離のある人生を送ってきてしまった。顔を合わせるのだって年に一度くらいだ。たまにはマザコンと思われるくらい母親に甘えてもバチは当たらないだろう。

 昨日、ミシンのお礼の電話を貰った時に、進捗状況を訊いたら、「財布なんて作ったことがないから今試作品を作ってるわよ」と面倒臭そうに笑っていた。

 これを僕に黙ってこっそり読んでるかもしれない、かあちゃんへ。コンパクトで気取ってない世界にひとつだけの財布、できたら本格的な夏が来る前までによろしくお願い致します。なるはやで!

小原信治
投稿時間:2014-07-03 17:36:27
 
6月26日 小原信治の草の根広告社
『それは、奇蹟のような旅だった。』

「届けたいと思っている、音楽とかMCも、全部字幕で出したんですよ。台湾では北京語で、香港では広東語で。字幕で出ているっていうことは、用意されてるってことじゃないですか。『どうかな〜?』って思っていたんだけども。でも結局、僕には、福山チームには、届けたいことがあって、その届けたいものが最終的に届いていくんだっていうことを、台北の初日にオーディエンスに教えてもらったんだよね。」(今週の「魂ラジ」より)

 福山雅治という日本人アーティストの音楽を、その想いを、海を越えて届けたい。その為に、福山さんやスタッフの皆さんと綿密に相談しながら用意した映像であり、MCであり、字幕だった。でも、用意したからこその不安もあった。予測できない何かが起きるのが「ライブ」だからだ。もしも用意していないことを伝えなければならなくなったら、或いは伝えたくなったらどうするのか。僕らはどうすればいいのか。福山さんの想いをダイレクトに届ける北京語をステージのこちら側で用意して差し出せるのだろうか。国内のライブのように、用意した言葉ではなく、今ステージの上で生まれた想いを福山さんが日本語で語り始めたとしても、同時通訳のように字幕を出せるシステムではないのだ。次以降はともかく、今回は。考えれば考えるほど不安になった。何しろ、初の海外公演なのだ。スタッフの空気もいつもの本番前とは明らかに違っていた。ステージに立つわけでもない僕でさえ緊張していた。その緊張はひょっとしたら2000年に初の稲佐山ライブをお手伝いさせて頂いたとき以上だったんじゃないだろうか。

 祈るような気持ちの中で、オープニングの映像とともに、台湾での初の海外公演が幕を開けた。立て続けに3曲演った後、最初のMCが始まる。福山さんの言葉と字幕のタイミングをチェックしながら、今夜の福山さんが「MCという武器」を封印された状態でライブに望んでいることに改めて気づいた。

 台北アリーナのオーディエンスの反応は、冒頭から予想を遙かに越えていた。まさに「ずっと待ち望んでいた」という言葉がぴったりくるような熱気と興奮だった。まるで子供の頃に映像で観たビートルズの日本公演みたいだった。3曲続けてのミリオンヒットのときには隣りで観ていた台湾人の通訳の方も目尻を拭っていた。やばいと思った。その熱い熱い声援に対する感動と感謝は、用意した言葉だけでは到底足りない。でも、手も足も出ない。福山さんは言葉を封印されているのだ。
 
 そんな喜びと焦りを予想を越える方法で福山さんが払拭したのは曲が「とりP〜とりビー!」のイントロに差し掛かったときのこと。福山さんがアドリブで奏でたアコースティックギターの音色に、オーディエンスが激しく反応した。その歓声に応えるかのように井上鑑さんの鍵盤が間髪入れずに絡んでゆく。福山さんのギターと鑑さんのピアノ、そこにオーディエンスが大歓声という絶妙な合いの手を入れてゆく。それはライブならではの「今、ここで生まれている音楽」だった。その「生の音楽」に会場全体のボルテージがますます上がってきたそのとき、なんと福山さんが「Da Da Da Da Da…Du Du Du…」と歌い始めたのだ。鳥肌が立った。リハーサルではもちろん、国内のドームツアーでもそんなことはなかった。時間にして1分ちょっとの福山さん鑑さんと台湾オーディエンスのアドリブセッション。福山さんが太い歌声で締め括ると、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれ、たくさんの笑顔とともに「とりP〜とりビー!」が始まった。それは事前に用意したどんな言葉よりも、福山さんとオーディエンスの距離をぐっと縮めた瞬間のひとつだった。「音楽」だけが成し得る、奇蹟のような瞬間だった。もしかすると「言葉という武器」を封印されていたからこそ本能的に生まれた表現だったのかもしれないと思った。ライブの後、軽い打ち上げをした時にほろ酔いの福山さんにその話をしたら「そうかもね」と嬉しそうに笑っていた。

 たぶん、用意した言葉なんてもういらなかった。純粋に、音楽だけで、ひとつになっていった。スクリーンに映し出す映像だけを長年見つめているスタッフの方が「福山さんのあんな顔、観たことなかったよ」と本番の後で嬉しそうに話していた。それぞれのソロに対するオーディエンスの敏感な反応を得たバンドメンバーの方々が、まるで初ライブの少年のような顔でプレイされていたのも印象的だった。

「届くんだ…」
 そのことに感動していたのは、スタッフの僕らだけではない。たぶん、僕ら以上に、日本から来て下さった方々がその事実を強く抱き締めていたのだと思う。たとえば、『暁』のラストで福山さんの歌声が北京語にスイッチしたとき、台湾の方々がその夜一番の歓声を上げたのに反して、日本から来られた方々は涙を流していた。それは香港でも同じだった。自分の大好きな音楽が、海を越えて違う国の人たちにちゃんと届いた。その事実を目の当たりにしての、熱い熱い喜びの涙だと思った。

 何しろ「出席確認」の印象だと、その夜、福山さんのライブを初めて見るという人が7〜8割近いのだ。そんなの僕が知る限りでは初めての状況だった。当然、ライトな観客の方も大勢いる。最初は坐っていた方も大勢いた。でも、届いたのだ。その証に、ライブが後半に進むにつれ、立ち上がる方も増えて行った。そして、そんな初めての方々にとってのお手本となっていたのが、他でもない日本から来て下さった方々や以前日本にライブを観に来て下さったことのある方々だった。数こそ少なかったけれど、その方々の手拍子や手の振りがなければ、初めての方々とあんな風にひとつになることはできなかったかもしれないよね、と、打ち上げのときに福山さんやスタッフの皆さんとも話していたくらいだ。
 
 年末の感謝祭に比べて、初めての方々が多かった五大ドームツアーでもうだったけど、初めての方が生の「音楽」に感動し、その「届いた」という事実に、それまでその「音楽」を愛していた方々も感動する。そして、それら二つの感動と声援をパワーに、さらに力強いパフォーマンスが生まれる。そのパフォーマンスにオーディエンスがさらに感動する。そんな「感動の連鎖」が何度も生まれた夜であり、ツアーだった。「音楽ってすげえな」と改めて感じさせられた、本当に奇蹟のような夜であり、旅だった。
 
 それに引き替え、その奇蹟のような感動を綴る僕の言葉と来たら…あぁ、言葉って無力だなぁ。

 最後になってしまいましたが、全国五大ドーム+さいたまに来て下さった皆さん、そして、アジアツアーに参加して下さった皆さん、素晴らしい体験を本当にありがとうございました!&謝謝大家!&多謝大家!

小原信治
投稿時間:2014-06-26 17:42:57
 
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