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2月27日 小原信治の草の根広告社
『監獄実験』

「お前も職務質問されるようになったら、作家として一人前だ」
 その昔、無頼派の先輩がそんなことを言っていた。偉いんだか偉くないんだか、嬉しいんだか嬉しくないんだか分からない指標だと思った。

 ボーダーシャツのおかげで、トレンドワードに入れて頂いた生放送終了後の話だ。首都高の入り口に向けて車を走らせていた僕を、後ろから近づいてきたパトカーの赤色灯が照らした。「停まりなさい」という高圧的な声が聞こえた。
 シートベルトもしていた。速度違反も、信号無視もしていなかった。眉をしかめながらウインカーを出して路肩に寄せると、パトカーを降りてきた3人の警察官が素早く運転席の僕を包囲した。
「免許証の提示をお願いします」
 降りてゆく窓の向こうで警察官が告げた。飲酒運転などの検問という感じでもなかった。財布から免許証を出すと「車を降りるよう」命じられた。

「薬物を詰んでいないかトランクと車内を見せて貰います」
 1人目が車の中を調べ始めた。 
「偽造カードを持っていないか財布の中を見せて貰います」
 2人目が財布の中身を調べ始めた。
「こんな時間に何をしてるんですか?」
 3人目が、ついに僕自身を調べ始めた。

 1971年にスタンフォード大学である心理実験が行われた。新聞広告などで集めた21人の被験者のうち、11人を看守役に、10人を囚人役に分け、刑務所に近い設備で2週間それぞれの役を演じさせたところ、被験者の多くがその役割に合わせた行動を取るようになったという。実際には看守でも囚人でもないのに、だ。

 3人の警官に包囲された僕は、誰が見ても完全な容疑者だっただろう。闇の中で音もなく回転する赤色灯が舞台照明のように雰囲気を盛り上げる。さらに衣装。そう、僕は革ジャンの下に「ボーダーシャツ」だったのだ。容疑者を通り越して、もはや囚人じゃないか。完璧じゃないか。

 気がつけば僕は、スタンフォード監獄実験の被験者のように、容疑者という役割を演じ始めていた。やましいことは何ひとつないのに、車の中から薬物か何か出てくるんじゃないかという罪悪感を抱き、逮捕直前の犯人みたいに深い絶望を滲ませた声で叫んでいた。
「これ、何も出て来なかったらどうしてくれるんですか?」
「謝ります」
 目の前の警察官がケロッと言った。
「それだけ?」
 IKKOさんの「どんだけ〜?」みたいなイントネーションだった。我ながら滑稽だった。
 
 5分後だったろうか、10分後だったろうか。緊張と怒りで時間の感覚もわからなくなっていた僕に向かって、3人の警察官が「すいませんでした」と挙手敬礼した。「謝ります」と言われた時には土下座でもするのかと思っていたけど、よく考えたらそんなことするはずがない。

「いやあ、東京はこの時間になると、危ない奴が多いんですよ」
 最後に告げたその言葉こそが、彼らが僕に職務質問をかけた理由だった。そんな東京がまた嫌いになった。そんな危ない街、二度と来るかと一瞬だが本気で思った。まあ、行かないと仕事にならないから、嫌いでも行くんだけど。

 カットが掛かっても役柄を引き摺ったままというのはこんな感じなんだろうか。簡単にはおさまりそうにない怒りの感情でアレコレ思いながら車を走らせていたとき、ふと浮かんだのが、その昔、無頼派の先輩に言われた冒頭の言葉だった。
「お前も職務質問されるようになったら、作家として一人前だ」

 思えば、人生初の職務質問だった。これで僕も作家としてようやく一人前になったのだろうか。いや、こんな不快な思いをするなら、死ぬまで半人前でいいやというのが、そんな先輩に対する僕自身の結論だった。

 あの夜、胸の奥に刺さった小さなトゲが、これを書いてようやく消えた。


 最後に警察の皆々様、深夜のパトロール、おつかれさまです。

小原信治
投稿時間:2015-02-27 07:29:13
 
2月20日 小原信治の草の根広告社
『宮城でもらった笑顔としあわせ』
 
 名取の「せり鍋」、石巻の「ワカメしゃぶしゃぶ」、新澤醸造店の「超濃厚ジャージーヨーグルト酒」。一週間の滞在中、宮城県で新たに出逢った「おいしい」ものたちだ。

 おいしいは笑顔をくれる。おいしいはしあわせをくれる。宮城にはそんな「おいしい」がたくさんある。改めてそう感じた。食材が県内産だから手軽に味わうことができる。もちろん全部が全部そうじゃないと思うけれど、僕が足を運んだ飲食店はほとんどが連日満員の大盛況店ばかりだった。日本酒片手に様々なおいしいを味わう人たちの笑顔で溢れていた。

 震災直後に見た2つの映像を思い出した。ひとつは買い占めと東日本からの配送道路の寸断などで、棚から水や食べ物が消えた都会のコンビニに立ち尽くす人たちの呆然とした顔。そしてもうひとつは、津波で住む場所を失った人たちが高台の農家に集まり、自分たちで作った団子汁を食べている姿だ。白い湯気が立ち上っていた。具がどっさり入っていた。家で育てたりした食材を冬支度の為にストックしてあったのではないだろうか。思わず「おいしそう」と声を漏らしてしまうほどだった。

 津波による塩害や漁場に堆積した瓦礫や、流された漁船や港、加工場が思うように再生できず、元通りになっていない一次産業もまだまだあるだろう。本当はもっと「おいしい」があるのに、と悔しい思いをされている方もたくさんいるだろう。

 今回の滞在で、新たに出逢った「おいしい」にたくさんの笑顔としあわせを貰った。でも、まだまだ大変なところもあった。今ある「おいしい」を大切にしながら、以前あった「おいしい」を少しずつ取り戻してくれたらいいな、と思った。その「おいしい」をいつかまた味わってみたい。

 賑わう仙台朝市で「名取のせり」を大人買いした。駅前のエスパルで「超濃厚ジャージーヨーグルト酒」をこれまた大人買いした。支援なんて言うつもりはない。ただ単に、その「おいしい」がくれる笑顔としあわせをどうしても家にどっさり持って帰りたかったからだ。

 ありがとう、宮城。最高です。

小原信治
投稿時間:2015-02-23 13:18:30
 
2月13日 小原信治の草の根広告社
『いつも心に童貞を』
 
 初めてバレンタインに手作りのチョコレートを貰ったのは、17歳だった。初めて女の子とキスをしたのも、17歳だった。
 そして、初めてつまらない常識を振りかざす大人に力づくで押さえつけられ、悔し涙を流したのも、17歳だった。12月で、冷たい雨だった。くだらない大人になるくらいなら、この気持ちのまま金や力を持ったクソガキになってやると誓った、17歳の夜だった。

 あの夜、僕は童貞だった。
 そのことを改めて思い出させてくれたのは、大童貞祭に集まってくれた童貞たちの汚れのない歌声だ。自分の中のもうひとりの僕が一緒に歌っていた。いつかここでも書いたと思う。「私の中のもうひとりの僕」だ。そいつは17歳だった12月の雨の夜に瞬間冷凍された、童貞の頃の僕自身だ。リトル本田ならぬ、リトル童貞だ。いつもは黙ってるけれど、45歳の僕がつまらない常識に縛られた選択をしたり、大人社会のつきあいに流されたり、自分に嘘をついたりすると、ひょっこり顔を出して、「お前の人生それでいいのか?」とキレ気味に呟く。そうそう、最高に天気が良いのに目の前の海と太陽を横目に、仕事で東京に行くときなんかいっつも。

 厄介だなと思うときもある。大人の女性(たとえば命懸けの出産を覚悟した経験があるような)には「また、なまぬるいこと言って」と窘められることもある。同性にだって「中二病」などと揶揄されることもある。でも、大童貞祭のあの夜、童貞たちの歌声を聴きながら思ったのは、「近い将来、身体が童貞じゃなくなっても、今のこの気持ちを失くして欲しくない」という願いだった。「この気持ち」とは、放送終了後の福山さんの言葉を借りれば「童貞マインド」だろう。17歳のとき、くだらない大人にはならないと誓った僕から見て素敵だなと思うオトコは、誰もがこの「童貞マインド」を持っている。
 男子たるもの「いつも心に童貞を」なのだ。


 果たして国を預かる偉い人たちの何人が「いつも心に童貞を」持ち続けているのだろう。なんて文章を僕は今、ホテルのコインランドリーで焦臭いニュースを見ながら書いている。仙台に滞在して何泊目だろう。さすがにパンツがなくなった。そういえばツーリングしてた頃もよくホテルのランドリーのお世話になったなあ。コインランドリーを使うといつも、アパートに洗濯機がなかった大学生の頃を思い出す。身体だけはもう、童貞ではなかったけれど。

 「いつも心に童貞を」
 いくつになっても、童貞じゃなくなっても。

小原信治

投稿時間:2015-02-13 09:30:53
 
2月5日 小原信治の草の根広告社
『泳ぎながら考えた。』
 
 いつもの海沿いを走ることだけが、ここ数年、僕にとって唯一の運動だった。とはいえ、さすがにこの年齢になると、寒さが体に堪えるようになった。長年(というほどでもないけれど)のランニングによる衝撃の蓄積と加齢とで膝が痛む日も出てきた。走行距離もタイムもほぼ頭打ちとなり、飽きもきていた。だけど、一番モチベーションを落としていたのは、やっぱり骨身に凍みるこの寒さだ。寒い中で走ると筋肉がみるみる硬くなり、怪我もしやすくなるのだ。

 今年に入ってから、突然思いついたように、泳ぐようになった。3年ほど前、近所にできたばかりの市民プールだ。25メートルが6コースあるだけのシンプルな空間だ。平日の午前中などはほぼ貸し切りみたいなそのプールで、この1ヶ月は、以前走っていた時間をひたすら泳いで過ごした。

 始めたばかりの頃は500メートルも泳ぐと息が上がっていたけど、次第に1q泳いだくらいでようやくウォーミングアップ終了という感じになった。同じ運動を続けると、体がより低燃費に動くようになるのは、ランニングでも経験していたけど、同じ事が今、水泳を始めた自分の体に起きているのが手に取るように分かる。クロールを1時間。肩胛骨が柔軟になる。平泳ぎを30分。股関節の可動域が広がり、柔軟性が上がった。最後に背泳を15分。45歳にして本格化した肩こりと腰痛が水の中にみるみるうちに溶けていった。今はまだ泳ぐ距離もタイムも行くたびに伸びる。クロールの息継ぎが片側でしかできないなどの改善すべき課題も出てくる。同じコースで泳いでいた小学生に教えを乞うたりもする。始めたばかりだから当たり前なんだけど、自分自身の成長を感じられるとドーパミンも出るし、モチベーションも上がる。副次的に仕事にも今まで以上に張りが出る。何より、この季節に寒さを感じないし、水の中なので体を痛めたり、怪我をしないのも良い。これはまあ、始めたばかりなのでこの先何が待っているかは分からないけれども。

 僕みたいな何事もネガティブに考え込むタイプの人間は、普通の人以上に体を動かしていないとすぐに深い深い心の病という奈落に落ちる。だからこそ、幾つになっても頭を空っぽにして体を動かせる、いわゆる「生涯スポーツ」とともに生きていかなければならないと身を以て学んだのは30代になってからだった。どうして学校の体育ではこういうことを教えてくれなかったんだろう。いや、教えてくれていたんだと思うけど、全く耳に入っていなかったのかもしれないし、大人の教えなんてあの頃は何もかも疑っていたような気がする。今もだけど。

 自分自身が壁にぶつかり、悩み苦しみ、調べ考え、実践しながら掴み取ったことだけが「本当の学び」になっていることをこの歳になって本当によく感じる。よく考えたら今まで通り過ぎてきた先人の経験を記した教科書に全部書いてあったのに、すべて疑って掛かってたのだから仕方ない。改めてつくづく面倒な生き方をしてるなと溜め息が出るんだけど、他のみんなはどうなんだろう?

追伸 なんてBlogも、あと2ヶ月を切った。春になったら、どうしよう?
 
小原信治
投稿時間:2015-02-06 00:05:40
 
1月29日 小原信治の草の根広告社
『空想の人生』
 
 旅の空の下、ふとした瞬間に、ここで生まれ育っていたらどんな人生だったんだろうと、ありもしない空想に耽ることがよくある。

 先週の福井でも、ホテルとコンサート会場とを往復するタクシーの中で、ぼんやりとそんなことを思った。
「福井で働いてる人間は、家建てないと一人前と見なされないんですよ」
 タクシーの運転手さんがそう教えてくれた。確かに車窓にアパートやマンションの類は殆ど見当たらなかった。見渡す限りの平野には一軒家と水田、そして遠くには雪山が連なっていた。
「まあ、土地がびっくりするくらい安いからなんだけどね」
 確かに都会と比べればそうなのだろう。しかも中小企業の本社がたくさんあり、正社員率も日本一高い。普通に働いているだけで、誰もが無理なく家を建てることのできる環境があるのだという。

 僕は米軍機が頭の上を横切る神奈川のマンモス団地で育った。そこでは多くの人が働いてお金を貯めて、余所に一戸建てを買うことを夢見ていた。頭金の貯まった家族から一抜け、二抜けと余所に転居してゆく、子供心にあからさまな経済格差を意識させられざるを得ないコミュニティだった。
「ずっとここにいたら、ダメになる」
 いつしか僕自身も、そこを出て「ここではないどこか」を探し求めた。自分の本当の人生のある場所を探す旅だ。そして、海の見えるこの場所に移り住んでもなってもなお、その旅は終わっていない気がしてならない。人は生まれた場所を選ぶことはできないけれど、人生を終える場所は自分自身で探し出し、決めることができるからだ。生まれ育った場所が気に入らなかったのであれば、なおのこと。

 そんなことを思っていた僕に、タクシーの運転手さんが言った。
「同じ北陸でも金沢や富山と比べて、新幹線が来ると仕事が東京に流出するから嫌だって人間も福井には多いんだよね」
 福井に感じた心地良さというか、地に足のついた幸福感は、グローバリズムという怪物に飲み込まれる前の日本だったのかもしれないと思った。そして、ここで生まれ育っていたら、「ここではないどこか」を探し続けるという終わりのない旅に出たりしただろうか。生まれ育った場所に疑問も不満も持つことなくずっと同じ場所で暮らすことができたらどんな人生だったのだろう。

 兎にも角にも、1994年に「福山雅治のオールナイトニッポン」で構成作家をやるようにならなければ、そして、福山さんから全国ツアーに誘って貰わなければ、日本全国ここまで色んな場所を旅させて貰うことはなかっただろう。そして、これほどたくさんの場所で、ここで生まれ育っていたらなんて、空想することもなかっただろう。
 
 手に入らなかった幸せと、手放してしまった大切なものを思い出して、少しだけ切なくなる、そんな空想に耽ることも。

小原信治
投稿時間:2015-01-29 23:43:52
 
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