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5月15日 小原信治の草の根広告社
『孤高のチキンハート』

 「チキンが立った!」という自分の寝言で真夜中に目が覚めた。首なしチキンの丸焼きが人々の囲むテーブルの上で縮こまった茶色い足を伸ばして立ち上がり、丘の向こうへ逃げてゆく夢だった。

 おとといの晩の話だ。どうしてそんな夢を見たのだろう。「チキンの丸焼きなんて食べた憶えはないのだけれど」と思いつつ潜在意識という名のゴミ箱を引っ繰り返したら、夕方のニュースでインプットされ、寝る前に丸めて捨てた「集団」というコトバが床の上に転がり落ちた。

 子供の頃から「集団」というコトバに嫌悪感と不信感を抱いていた。整列、行進はもちろん、遠足や社会科見学、修学旅行などグループを作っての集団行動も苦手だった。誰かに命令されて皆で同じことをさせられるのが苦痛だった。簡単だ。自分だけが集団に上手く溶け込めないことが同級生はもちろん、先生や両親にもバレてしまうのが怖かったからだ。

 今はどうか分からないけれど、僕が子供の頃、学校には明らかに軍隊指導の名残があったような気がする。体罰。頭髪、服装、世の中の法律とは違う校則という特別なルール。気が合うかどうかも分からない者同士がひとつの教室に閉じ込められ、グループを作らされ、協調し同じ目的を達成することを強制された。その一方で、成績や受験では個々が熾烈な競争を強いられた。「誰か」が決めた価値観の中で。
 同世代でも「集団」の中で生きることを何とも思わない人にとっては、「そんなにひどかったか?」と、とても被害妄想的な文章に感じるかもしれないけれど、僕のように「集団」の中で生きることが苦手な者にとってはこのくらいの苦痛だということをご理解頂きたくあえてこんな書き方をした。
 
 とはいえ、同じように押しつけられた集団行動にストレスを感じる者もいないわけじゃなかったのだろう。校内暴力やいじめに暴走する者もいた。ただ、そのどちらもある程度の集団によって行われるものなので、グループを作るのが苦手な僕はそのどちらに荷担することもなかった。けれど、どのグループにも属さないことがバレて、いじめの標的にされそうになったことは幾度となくあった。そのたびにひとりになれる図書館の人目につかない日溜まりで様々な本の世界に閉じこもり、やり過ごした。あと何日経てば、この狭くてくだらない鶏小屋を出て、自由に思うがままに生きられる日が来るだろうかと、生徒手帳のカレンダーを見ながら指折り数えた。何度も何度も。
 
 今思えば、まるで鶏小屋で飼育される大量生産のブロイラーだったのだ。狭い鶏小屋に窮屈に閉じ込められた鶏たちがその強いストレスから本能的に弱い鶏を攻撃し、時には殺してしまうのと同じように、当時の学校という閉鎖された集団では暴力やいじめが生まれていたのではないだろうか。決して、僕が酉年生まれだからそう結びつけたわけじゃない。と思う。

 そんなわけで「集団」が苦手な僕は、いわゆる会社という「集団」に就職もしなかった。思うがままの自由業を選択し、今もあの頃のように「集団」というコトバに嫌悪感と不信感を抱きながら生きている。たぶん「ある側」から見れば人間教育に失敗した社会不適格者なのだろう。だからなぜ「集団」で戦わなければならないのかが、本能的にはわからないし、わかりたいとも思っていない。今のところは。暴力やいじめがある程度の「集団」でしか生まれないように、「集団」じゃなきゃ戦えないというのであれば、それは本当に正義なのだろうかと、疑ってしまうのだ。大切な人や大切な何かを守る為に、自分ひとりで戦うというのならばともかく。

 丘の向こうに逃げ出した、首なしチキンの丸焼きは、他でもない僕自身だったのかもしれない。

小原信治


投稿時間:2014-05-15 08:41:25
 
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