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『僕らが捨てた町』 |
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ここ数日、なんとも説明し難い、ざわざわとした想いが心の中から消えない。
神奈川県の大和市と横浜市にまたがる「いちょう団地」。18歳で家を出るまで暮らしていた団地の川向こうにある、同じようなマンモス団地だ。小中の頃は学区外だったので交流はなかったが、高校に入ってアルバイトをするようになると、この団地に住んでいる友達もできた。ベビーブーム真っ直中だったのでとにかく子供がたくさんいた。おかげで受験は「戦争」と言われるほど競争率が激しかった。
そんな「いちょう団地」の現在を、テレビで見た。かつての子供たちが大人になって団地を出ていき、住人の多くが高齢者だけになってゆく中、住人の2割がアジアからの移民となり、20年かけて新しい地域社会を作って来たというドキュメンタリーだった。団地の敷地内にある張り紙はタイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなど6 カ国語で書かれていた。団地の子供たちが通う小学校は生徒の75%が外国籍だった。子供の頃、少ないおこづかいを握り締めて遊びにいったショッピングセンターは殆どが外国人の経営する外国人向けの商店群に変わっていた。
昭和50年代、市に作られたセンターで難民を大量に受け入れたことは知っていた。彼らが自立して、団地で暮らすようになったことも聞いてはいた。ちょうど僕が団地を出た20年くらい前のことだ。何年か前、仕事で18歳まで暮らした団地を訪れた時、懐かしいグラウンドで遊んでいるのがみんな外国の子供たちだったのを見たこともあった。
今回見たテレビもそうだったけれど、10代の頃に見ていた懐かしいはずの風景なのに、懐かしさは微塵も感じなかった。誤解のないよう言っておくけれど、移民を受け入れることに反対しているわけじゃない。ただ、本来懐かしさを感じるべき場所が、そこで暮らす人たちが変わるだけでこんなにも違って見えるのかという、ただそれだけの話だ。懐かしさを感じるのは場所ではなく、そこで生きる人々が作り出す空気なのかもしれないと思った。
何だろう。うまく言えないけれど、まるで、子供の頃、無責任に捨てたおもちゃのぬいぐるみが、別の誰かの手にあるのを見たような、そんな気持ちだった。そう、僕らは捨てたのだ。その後、団地がどうなるかなんてことは微塵も考えず、無責任に。仮にも自分たちが育った場所を無責任に捨て去った僕らに口を出す権利などない。たとえそこから懐かしさが消え去ってしまうとしても、淋しいとすら思う権利はない。街の風景は今そこで生きている人たちが作っていくものなのだ。そしてそれはたぶん、この団地だけの話じゃない。
小原信治
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投稿時間:2014-05-01 21:21:07 |
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